映画「エルヴィス」を見ました。
エルヴィス・プレスリーといえば、アメリカを代表するロックシンガーであり、「キング・オブ・ロックンロール」 と称され、ソロアーティストとしては最もレコードをセールスしたことで有名です。
彼が頭角を現したのは、1954年「ザッツ・オールライト・ママ」 メンフィスのローカルラジオ局が流したことから、ヒットにつながったと言われています。歌っているのは黒人かと誰もが思っていたら、実は白人だったということで、その意外性にピンときた人物がパーカー大佐でした。実際のプレスリーのライブを見て、新しい音楽スタイルを感じたパーカー大佐はすぐに彼の両親の元に行き専属契約を結びます。
アメリカ全土に売り出す為には、大手レコード会社でないとダメだと考えたパーカー大佐は、すぐにサン・レコードからRCAビクターへ移籍させます。それが1955年のことで、そこから快進撃が始まったといえます。腰をくねらせて歌う独特のスタイルは女性のハートを釘付けにする破壊力がありました。
テレビのオファーもあり、国民的なバラエティー番組に出演したプレスリーですが、保守的なスポンサーなどからは、彼のスタイルに批判的な意見もあり、パーカー大佐はその間で苦慮したようでした。
1958年から1960年は徴兵命令が下り、西ドイツの部隊に配属されました。
その後除隊し、戻ってからは映画出演が待っていました。これは彼がジェームス・ディーン に憧れており、自分もいつか彼のような銀幕のスターになりたいという思いがあったのです。ただし、悪徳マネージャーのパーカー大佐が一気に10本もの出演契約を結んでしまったことから、駄作、凡作と酷評されました。
一方音楽活動の方は、62年の「好きにならずにいられない」までは好調だったのですが、それ以降は低迷します。若手のビートルズが台頭したことも大きな要因と考えられますが、映画の量産もマイナスに働いたと言われています。
そんな中、1967年には10歳年の離れたプリシラと結婚します。翌年には愛娘リサ・マリーも誕生し、順風満帆に見えましたが、プレスリーとの距離が少しずつ離れていきついには、7年後には破局してしまいます。
1968年のテレビ出演をきっかけに復活します。翌年からは過密スケジュールで再び多忙を極めることになります。
しかし、年125回ものハイペースでライブを行ったことで、身体はボロボロになっていきました。
1975年頃からストレスからくる過食症になり、体重は激増します。そして1977年メンフィスの自宅で亡くなられたました。42歳という若さでした。
エルヴィス・プレスリーというおそらく不世出の大スターも激動の人生だったことがこの映画を通してわかりました。僕が洋楽に目覚めたのが1970年ですから、プレスリーの晩年時代しかリアルには知りません。当時「エルヴィス・オン・ステージ」という映画がヒットしていたことは記憶にあります。彼の突出した人気を考えると50年代のエルヴィス、60年代のビートルズ、80年代のマイケル・ジャクソンというような例えになるのでしょうか。
主演のオースティン・バトラーは本当によく似ていました、特に晩年のふっくらした顔はプレスリーが憑依したのではないかというくらいでした。しかし、「ボヘミアン・ラプソディー」にしろ、「ロケットマン」にしろ、主演されて俳優さんたちは皆素晴らしいですね。
また、パーカー大佐を演じたトム・ハンクスも流石の演技だということを付け加えておきます。
エルヴィス・プレスリーといえば、アメリカを代表するロックシンガーであり、「キング・オブ・ロックンロール」 と称され、ソロアーティストとしては最もレコードをセールスしたことで有名です。
彼が頭角を現したのは、1954年「ザッツ・オールライト・ママ」 メンフィスのローカルラジオ局が流したことから、ヒットにつながったと言われています。歌っているのは黒人かと誰もが思っていたら、実は白人だったということで、その意外性にピンときた人物がパーカー大佐でした。実際のプレスリーのライブを見て、新しい音楽スタイルを感じたパーカー大佐はすぐに彼の両親の元に行き専属契約を結びます。
アメリカ全土に売り出す為には、大手レコード会社でないとダメだと考えたパーカー大佐は、すぐにサン・レコードからRCAビクターへ移籍させます。それが1955年のことで、そこから快進撃が始まったといえます。腰をくねらせて歌う独特のスタイルは女性のハートを釘付けにする破壊力がありました。
テレビのオファーもあり、国民的なバラエティー番組に出演したプレスリーですが、保守的なスポンサーなどからは、彼のスタイルに批判的な意見もあり、パーカー大佐はその間で苦慮したようでした。
1958年から1960年は徴兵命令が下り、西ドイツの部隊に配属されました。
その後除隊し、戻ってからは映画出演が待っていました。これは彼がジェームス・ディーン に憧れており、自分もいつか彼のような銀幕のスターになりたいという思いがあったのです。ただし、悪徳マネージャーのパーカー大佐が一気に10本もの出演契約を結んでしまったことから、駄作、凡作と酷評されました。
一方音楽活動の方は、62年の「好きにならずにいられない」までは好調だったのですが、それ以降は低迷します。若手のビートルズが台頭したことも大きな要因と考えられますが、映画の量産もマイナスに働いたと言われています。
そんな中、1967年には10歳年の離れたプリシラと結婚します。翌年には愛娘リサ・マリーも誕生し、順風満帆に見えましたが、プレスリーとの距離が少しずつ離れていきついには、7年後には破局してしまいます。
1968年のテレビ出演をきっかけに復活します。翌年からは過密スケジュールで再び多忙を極めることになります。
しかし、年125回ものハイペースでライブを行ったことで、身体はボロボロになっていきました。
1975年頃からストレスからくる過食症になり、体重は激増します。そして1977年メンフィスの自宅で亡くなられたました。42歳という若さでした。
エルヴィス・プレスリーというおそらく不世出の大スターも激動の人生だったことがこの映画を通してわかりました。僕が洋楽に目覚めたのが1970年ですから、プレスリーの晩年時代しかリアルには知りません。当時「エルヴィス・オン・ステージ」という映画がヒットしていたことは記憶にあります。彼の突出した人気を考えると50年代のエルヴィス、60年代のビートルズ、80年代のマイケル・ジャクソンというような例えになるのでしょうか。
主演のオースティン・バトラーは本当によく似ていました、特に晩年のふっくらした顔はプレスリーが憑依したのではないかというくらいでした。しかし、「ボヘミアン・ラプソディー」にしろ、「ロケットマン」にしろ、主演されて俳優さんたちは皆素晴らしいですね。
また、パーカー大佐を演じたトム・ハンクスも流石の演技だということを付け加えておきます。