舘祐司の気ままなブログ

カテゴリ: 昔のこと

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これは7月3日にNHKで放送された番組だ。
「We Are The World」と言えば音楽にさほど興味のない方でも、40歳以上の方なら知っていると思う。
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アメリカを中心に活躍していたアーティスト40数名が一堂に会し、一つの曲を皆で歌いそれをレコードやビデオで販売し、その収益をエチオピアの飢餓で苦しむ人々に寄付をしたのだ。
全ての合計でなんと6300万ドルの収入があり、それを全額寄付したということで世界中に大きな衝撃を与えた。
そのレコーディングは一晩の間に行われた。一線級のアーティストが集まれるタイミングはそこしかなかったのだ。その夜の珍騒動や感動秘話など知られざる誕生の物語がそこにあったのだ。

事の始まりは、1984年にハリー・べラフォンテがテレビでエチオピアの大飢饉のニュースを見たことだった。
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「何か力になれることはないか」と考えていたところ、イギリスからすごいニュースが飛び込んできた。ボブ・ゲルドフが中心になり、イギリスを中心に活動するアーティストを集めてオリジナル曲を収録、レコードとビデオを販売して、その収益を貧しいアフリカの国に寄付をするというものだった。
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そうあの「Do They Know It's Christmas?」だ。それを知ったべラフォンテは「やられた」と思ったそうだ。ちなみにハリー・べラフォンテ氏はあの「デーオ!」で始まる「バナナボート」でヒットした歌手でアメリカのアーティストたちからは一目置かれるシンガーである。
 
それからすぐに行動に移るが、スーパースターたちを集めるのはとても難題だ。その難しいことを依頼されたのが、芸能プロデューサーのケン・クラゲンだった。
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アメリカでも指折りの顔が広い男で、私の役目は「今回は一銭も儲からないことを納得させることだった」と語っている。エチオピアの惨状をテレビで伝えたうえで、レコード会社にはこう聞いたそうだ。「まだ利益を上げたいですか?それとも人々を救いたいですか」って。
その作戦が功を奏し、スーパースターたちが続々と参加を表明した。だがべラフォンテの目的はただ歌うだけじゃなくその模様をビデオに収めることだった。それは、白人も黒人も女も男も、年を取ったのも若いのもスターをそろえればそれは「世界の縮図」になるのだ。「私は世界の人に見てほしかった、肌の色の違い、性別、政治的主張の違い、いろんな違いを乗り越えて皆が一つになっているところを。それは曲を聴くだけではわかりづらいけど、ビデオを見れば一目瞭然だ。」その強い意志が皆を動かし、大きな偉業を成し遂げることとなる。

1985年1月マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダー、レイ・チャールズ、ライオネル・リッチー、ダイアナ・ロス、ブルース・スプリングスティーンといったそうそうたるメンバーたちがハリウッドのA&Mレコーディングスタジオに集まってきた。
作詞作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが手掛け、プロデュースをクインシー・ジョーンズが担当するという超豪華版である。
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簡単な打合せのあと、コーラス部分から収録され順調に進んでいた。しかし、スティービー・ワンダーからエチオピアで使われているスワヒリ語を歌詞の中に入れてはどうかという提案が出され、一気に紛糾することになったという。それが1時間も続いたのだが、レイ・チャールズがなぜか「バナナボート」を口ずさみだすとそれにつられて何人かが歌いだし、その険悪ムードが一気に解消されたのだ。
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エチオピア人とケニア人の一般女性が2名このスタジオに招待されていた。その準備をしたのはスティービー・ワンダーだった。アフリカの状況をよく知る人物を探していたという。そして皆の前で悲惨な現地の現状を話したそうだ。多くの人の目から涙がこぼれたという。その状況を見たケニア人女性は「この人たちは本気で助けようとしてくれている。この人たちならきっと素晴らしいことをやってくれる」と確信したそうだ。
このことで全員の気持ちが一つになった。
そしてソロパートの練習に入る、マイケル・ジャクソンはとても熱心にそれぞれのパートの指導役に徹していた。多くのアーティストが集まっていたのだが、一人まだ姿を見せていないアーティストがいた。その名はプリンスだった。
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皆はプリンスとマイケルが並んで歌う場面を想像し、興奮していた。
マイケルのソロに続いてプリンスのソロパートいう順にプランされていたという。
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シーラ・Eにプリンスに早くスタジオに来るように電話をさせていたという。当時プリンスの恋人という関係だったからだ。しかし、プリンスはスタジオに現れることはなかった。当時マスコミは、マイケルとの確執があり、プリンスが参加しなかったのだと報じた。実は、シーラ・Eが利用されていることに腹を立てたからだということがこの放送で明らかにされた。
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プリンスが来ないことが決定的になり、そのパートをヒューイ・ルイスが急きょ担当することになった。それが我々がよく知っているバージョンである。もしプリンスが歌っていたら、などと想像するとまた違ったものになったに違いない。
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45人ものスーパーアーティストたちの競演という前代未聞の奇跡のレコーディングが終わった。夜10時頃に集まり、翌朝の8時までかかった、奇跡の10時間だ。

1985年3月世界中にリリースされた。
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ライオネル・リッチーのソロから始まりスティービー・ワンダーに続く、そして何と言っても中盤のサビのところ、マイケル・ジャクソンからヒューイ・ルイス、シンディ・ローパーの下りは最高だ。改めて今聴いても感動で鳥肌ものである。涙腺がやばくなってしまう。勝手に体が動いてリズムを取っていた。

この世紀の大偉業にこんな裏話があったとは、大変興味深く見させてもらうことができて良かった。
この時の彼らは本当にすごいことをやってくれたと思う。関係者に感謝するとともに改めて音楽の力のすごさにただただ感心させられるばかりだ。 


先日西城秀樹さんの訃報を上越に滞在中に知った。
テレビではズーッと彼の昔懐かしい映像が流れていた。

自然に口ずさめてしまうことにちょっと驚いてしまう。
昔のことは今でも頭に残っているんだな、と。
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西城秀樹さんは長身でルックスもよく、歌唱力もある歌手だ。
ちょっとハスキーな声はまた魅力的でもある。
スカウトされる前にはバンド活動もしていたというから、楽器も演奏できるというわけだ。
天は二物を与えずと言うが、彼にはそれは当てはまらない。

運動神経も良く、芸能人の運動会でも目立つ存在だった。

あの当時、アイドル歌手を「カッコいい」とは口にできなかったが、今では素直に「カッコいい」と言える。

数々のヒット曲があり、間違いなく昭和の大スターの1人である。 
「恋する季節」に始まり「情熱の嵐」 「激しい恋」「傷だらけのローラ」そして最もヒットした「ヤングマン」。どの曲も記憶にあるからしっかりと脳に刷り込まれている。
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ちなみに「ヤングマン」 はアメリカのヴィレッジ・ピープルが1979年にリリースしてヒットした「Y.M.C.A.」のカバー曲である。ヴィレッジ・ピープルはゲイをコンセプトに集まったグループで、この「Y.M.C.A.」もゲイを題材にしているという。「Y.M.C.A.」という言葉自体がゲイのことを指すスラングらしい。
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話が逸れてしまったが、63歳ということは僕と3歳しか違わない、意外と年齢が近いことを改めて思った。中学生の頃からテレビで見ていたからもっと年が上に感じていたのだろう。

いやあ、それにしても早すぎる、残念だ。
昭和のスターがまた1人亡くなった。
 

先日テレビで映画「JFK」を見ました。実際の映像なども絡め、とても見ごたえがありました。

そして15日の夜には池上彰さんの「現代史を歩く」番組で「JFK」の足跡を追っていました。
JFKといえばもちろん、アメリカの第35代大統領のジョン・F・ケネディのことです。
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テキサス州ダラスでのパレード中に凶弾に倒れそのまま帰らぬ人となりました。その直後に暗殺犯として収監されたオズワルドは警察内で射殺されるという前代未聞の事件になりました。映画で細かく解説されていますが、3方向から銃弾を受けていることや重体のケネディを診察した医師の記録がないことなど、矛盾が多く疑惑の山です。国家、警察、マフィアなどがグルになってもみ消しにかかった節もあり完全に解決していません。

大統領在任期間は3年足らずと短いですが、今でも多くのアメリカ国民の記憶に残り絶大な人気があるとされています。

この番組は大変興味深く見させていただきました。
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特にジョンの父親、ジョセフ・パトリック・ケネディについてはあまりよく知らなかったのですが、いろんなことがわかりました。例えば、ジョンの兄、長男のジョーは大変優秀でジョセフは将来アメリカの大統領に育てるつもりだったそうです。
しかし、不幸にも若くして戦死してしまい、その夢を次男のジョンに託したのです。
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ジョンは兄に比べるとそれほど優秀ではありませんでした。ハーバード大学に入学しますが、それも兄の成績が良かったため恩恵を受けたにすぎませんでした。

ジョンは戦時中、日本の「天霧」という駆逐艦に衝突され彼ら10名が乗ったボートは沈没します。
そこから自力で近くの島に泳ぎ着き、何とか助けを呼び乗組員らの救出に成功します。戦地から帰還後そこでの活躍ぶりを父ジョセフは見逃さず、英雄として取り上げるよう雑誌社に売り込みます。
そのかいあってジョン・F・ケネディの名は全米に知られるようになったと言います。
当の本人、ジョンは自分が英雄視されることをあまり望んではいなかったそうで、皮肉なものですね。元々は結構人見知りする性格だったようです。

知名度の上がったジョンは29歳で下院議員に当選しました。この時、実は裏で父ジョセフがかなりの資金援助を行ったそうです。そののち上院議員になり大統領へと階段を上がっていくのですが、常に父が黒幕の存在で、金で票を買っていくようなことをしていたようです。

ではなぜそのように資金が潤沢にあったのか、という疑問がわきますが、ジョセフの妻は名門フィッツジェラルド家の出身だったのです。
ジョン・F・ケネディのFはフィッツジェラルドの略なのです。

ケネディ家のルーツはアイルランドからの移民でアメリカに渡ってきました。ジョンの曽祖父の時代です。その頃は大変貧乏だったそうです。しかし、ジョンの祖父パトリック・ジョセフ・ケネディが実業家として財を成し、下院議員、上院議員となりました。ここからケネディ家も名門の仲間入りとなりました。

1961年ジョンは大統領選挙で僅差でニクソン候補を破り大統領に就任しました。この時まだ43歳の若さです。
そして1963年全米を震撼させる事件が起こります。在任中の大統領の暗殺というショッキングな事件です。
狙撃された時の映像が残っており、何度も放映されていますが、妻であるジャクリーンさんが撃たれた直後に飛び散った脳みそを拾い上げている光景が衝撃的です。
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ジャクリーンさんとは36歳のとき結婚されています。
その二人の長女として生まれたのがキャロラインさんです。
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キャロライン・ケネディさんは駐日大使を2013年から2017年まで務めています。
彼女の人気ぶりはすごかったこと、今も記憶に新しいと思います。
1957年生まれで現在60歳です。偶然ですが僕と同学年ですね。
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1969年「スイート・キャロライン」という曲がアメリカで発売されヒットしました。
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この曲はニール・ダイアモンドさんが作詞作曲で自ら歌っています。
後日ニール氏はキャロライン・ケネディさんを歌ったものであると明かしています。
また、そうではないという説もあり真実は不明ですが、前述のようだったらいいなと思います。

確かに可愛いらしいお嬢ちゃんです。
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前回の続きです。

27歳の時、結婚しました。彼女の強い希望で教会式で挙げました。
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この時のエピソードで、彼女の希望は「街の小さな教会」でしたので、ある教会にいき「ここで結婚式を挙げたいのですが?」と尋ねると「キリスト教徒ですか?」と聞かれ「違います」と答えると丁重にお断りされました。同様にほかの教会でも断られ、最終的に布池教会になりました。
2回神父さんのお話を聞くことが条件でした。
今思うとキリスト教への入り口を作っておられたのかもしれません。
当時はまだほとんど神前式の時代でしたので珍しかったですが、それから10年もたたないうちに教会式が主流になりました。

結婚してすぐに2人の子供に恵まれました。
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昔から息子が欲しいと思っており、女の子と聞いて少しがっかりしましたが、すぐに性別などまったく関係ないことに気づかされました。「子は宝」と言いますが、よく言ったものです。
2人目も娘でしたが、その頃にはむしろ娘でよかったと思えるほどに心変わりしていました。現金なものです。
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とにかく家族のことを大切にと一生懸命仕事をしてきたつもりです。

2人の娘たちは本当にまっすぐ育ってくれて、妻とともにとても感謝しています。

そして時が経ち、娘らも成人して何とか社会人となり子育ての責任は果たせたのかなと思います。

2012年初のミスチルライブ、ナゴヤドームです。ミスチルファンはここから始まりました。
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2013年日本ガイシホールのライブです。
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2014年56歳の誕生日に時計をプレゼントされました。今でも愛用しています。
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同じく2014年11月九州旅行でかねてから念願の「ゆふいんの森」号に初めて乗りました。
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2015年2月会社の旅行で長崎へ、バックに移っているのは軍艦島(端島)です。
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2015年8月ミスチル「未完」ライブです。
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2016年2月沖縄旅行での一コマ、三線を持って。(ただ持ってるだけです、引けません)
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2016年10月恵那峡にて。
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2017年2月 59歳の誕生日にホテルのディナーを娘からプレゼントされました。
奥に見えているのは名古屋城です。

2017年6月ミスチル「Thanksgiving」ツアー。
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2017年8月横浜みなとみらいでピカチュウと2ショット。
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2017年10月還暦同窓会です。
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そして2018年2月を静かに迎えております。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

還暦記念として懐かしい写真でこれまでの人生を振り返りたいと思います。

昭和33年(1958年)名古屋市北区の近藤助産院で産声を上げました。
最初はなかなか「オギャー」の声が出なかったそうで、心配されたようです。

まずは、僕が持っている中で一番古い写真です。
1歳半から2歳ごろでしょうかね。顔がボールみたいに丸くてポチャポチャです。
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「行って来まーす」朝、幼稚園に行くときのショットだと思います。我ながら可愛いです。(笑)
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小学校5年生ごろ「海洋少年団」に入団していました。夏休みで全国大会に行った時のショットです。
隣は同級生です。
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小学校を卒業した春休みに学生服を着て撮影しました。まだ、坊主頭になる前です。初々しい。
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中学は校則で丸坊主でした。このころからロックやポピュラー音楽をよく聴くようになりました。
(MUSIC LIFEを毎月購読してました)
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高校生の頃です。たぶん修学旅行に行った時のショットです。
(月刊MEN'S CLUBを購読してました)
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同じく高校生の頃だと思います。隣は3歳下の妹です。(2015年没)
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20歳から波乗りを始め、どっぷりとのめりこんでいました。
(たぶん赤羽根海岸のロングビーチだと思います。この辺りがホームグランドでした)
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毎週の休みはいつも海にいました。

初めての海外旅行でハワイに行きました。向こうで買ったサーフボードです。(もう勢いですね)
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結婚する前、波乗り旅行で三重県尾鷲方面に行きました。
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「さあ、行くぞー」勇んで海に向かうところです。(この表情必要ないです)
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彼女の家の部屋でミッキーの帽子をかぶって。
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25歳ころから冬はスキーを始めました。
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この頃は休みの日になると、夏は海、冬は山というアクティブな時代でした。
ひとまず前編はこの辺で終了します。
後編は結婚してからです。

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