舘祐司の気ままなブログ

カテゴリ: 昔のこと

さて今年もいよいよ残すところあとわずかとなってきました。
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12月は師走と言って何かとせわしい月のイメージがありますね。
カバ丸くんたちも大忙しです。
クリスマスツリー、大掃除、餅つき、年越しそばに除夜の鐘ですか…

ところで「年神様」とはいったい何でしょう?
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年神は正月に各家にやってくる来方神のことだそうです。
今も残る正月の飾り物は元々年神を迎えるためのものなのだとか。
門松は年神が来訪するための依代(よりしろ)=(対象物のこと)で、鏡餅は年神へのお供え物なんだそうです。
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ちなみに年神様は家々にやってきて生きる力や幸せを授けてくださると考えられています。

またしめ飾りを玄関などに飾りますね。
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神社にしめ縄を張るのと同じ理由で、自分の家が年神様をお迎えするのにふさわしい神聖な場所であることを示すために始まったと言われています。
みな意味があるんですね。

おせち料理なども元々、昔、正月はどこも店が開いていないため、食材を調達できないために作り置きしておくものだったのですが、今となってはスーパーなど正月早々から営業しているためそんな必要はまったくなくなってしまいました。
ただ名残として今もあり、現在は正月向けの高級料理という位置づけになりました。

話しがお正月になってしまいました。

年末に大掃除をするのも、清潔にして年神様をお迎えするためなんですね。
つまり、大掃除、鏡餅、しめ縄、門松という風習は全て年神様に関連しているということです。

そして年が明けると神社に初詣に行きます。
日本は古来より神を崇拝してきた国なんだということが改めてわかります。
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もうすぐ新しい年を迎えます。
皆様にとっていい年になりますようお願いいたします。

これも「神様に」ということになりますか?



父の名前は「和夫」という。
昭和2年生まれだから昭和の「和」をとって付けたのだろうと思われる。

おそらく世の中に「和夫」という名前の人は相当数いるに違いない。
パッと浮かぶ人で、徳光和夫さん、稲森和夫さん、志位和夫さん、財津和夫さんなどがいる。

「和」という感じはとても書きやすく、バランスのとりやすい字だと思う。
また画数も少なく、小学校低学年で習うので読めないという人は皆無だろう。

また、それと同様に昭和の「昭」の字もよく使われている気がする。

僕の小学校の同級生に「和昭」という名前の男の子がいたが、よく考えてみたら昭和をひっくり返した名前だ。

また、同級生の父親で「昭三」という名前の方がいた。
感のいい人なら、もう想像がつくかと思うが生まれ年は昭和三年だ。

他にも和男、和輝、和利、和義、良和などなど和の字を使った名前がやたら多いように思う。

女性なら「和子」さんや「和美」さんも多い。また「和枝」さんも。

それだけ「昭和」という元号に皆愛着があったということなのだろうか。
それとも名前に使いやすい漢字という理由なのだろうか。
「和」の響きがいいのだろうか。


昭和から平成に変わり「平」や「成」を名前に使っているかと言えば、ほとんどそんなことはないように思う。

この違いはいったいどこにあるのだろうか。



そんな事を思いながら、このブログを書いていると海外からニュースが飛び込んできた。

ノーベル文学賞にカズオ・イシグロさんが選出されたというのだ。

またもカズオさん?
カタカナ表記なのは彼が日系英国人だからという事だ。

昭和29年生まれだそうで彼もバリバリの昭和の男である。

本当に世の中に和夫さんが多い。
 

先日テレビのニュース番組で「マジソンバッグ」のことを放送されていました。
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「うわー、めちゃくちゃ懐かしい!」

僕らが中高生の頃、爆発的に流行したバッグです。

街を歩くと大半の学生が持っていたように記憶しています。
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ほとんど紺色が多かったのですが、白や茶というヴァージョンもあったようです。
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僕が持っていたのも紺色でした。
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そうです。このわしのマークに「U.S.A」の文字です。

何でも、バッグメーカーのACEが出した商品で、あるデパートからの依頼でこの「マジソンバッグ」が誕生したそうです。

現在の明仁天皇も中高生の頃、この「マジソンバッグ」を使用していたそうです。
ただし、「MADISON  SQUARE GARDEN」などの文字が入っていない特別注文品だったという話を当時のエースの担当者さんが話していました。

あまりに売れたもので、出回っている商品の半分くらいは偽物だったそうです。
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しかしメーカーの方も受注に対し生産が追い付かず、あえて偽物を黙認していたらしいです。

正規品が当時1500円で売られ、パチモンは800円から1000円くらいだったそうです。
現在の価格にすると大体4倍くらいでしょうか。


何のことはない普通のスポーツバッグなんですが、当時まだスポーツバッグと呼ばれるバッグがあまりなく、そのカテゴリーの先駆者的な存在だったかもしれません。

なんと言っても「MADISON  SQUARE GARDEN」の文字がかっこよかったですね。

単純に憧れのような感情が生まれていました。


ついでに思い出しました。
マジソンバッグが流行った少しあとだと思いますが、女子高生の間で「ピーナッツバッグ」の大流行もありました。
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当時の女子高生がみんな持っていたような覚えがあります。
布製のバッグにカラフルな色でスヌーピーのキャラクターたちが描かれていました。



今では、流行しているからといって皆が同じものを持つという傾向は少なくなりましたね。
昔と違って今の子たちは価値観が違うのでしょう。
一言でいうと時代が変わったということです。

昔は皆と同じものを持つことで満足感を得られているところがありました。

現代は、個性を重んじるため、逆に同じものは持ちたくないという意識が強いのかもしれません。


マジソンバッグに話を戻しますが、最近、あるお店が売り尽くしセールのようなイベントで販売されているというニュースでした。
どうやって入手したかというと、倒産した店の商品を丸ごと買った時の中にこのバッグが混じっていたそうです。
なかなかすごい話です。

懐かしき昭和の時代のお話しでした。

先日NHKの「戦後72年の郵便配達」というドキュメンタリー番組を見た。


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番組では、アメリカ軍に押収され「故郷に届かなかった手紙」が数多く存在し、ネット上で売買されている事を突き止めた。

戦後72年の時を超えて、届くはずだった宛先へと再配達する。



この放送で戦争中に戦地と故郷とを結ぶ唯一の手段だった「軍事郵便」という存在を知った。

驚いたのは、マニアの人々の間でオークションが行われているということだ。

1通で数万円の値が付くものもあるという。

届かなかった理由は、回収されたあと配達の途中で敵の攻撃を受け止まってしまった。

アメリカ兵が日本の領土に上陸し制圧した後、日本兵が持っていた郵便物を持ち出す場面も映像に残っていた。
これは米軍が未知の国日本の事を知るために、郵便物を貴重な資料として全て回収するように命令が出ていた、というのだ。
またアメリカ兵の中にはそれらを戦利品として集めたがるマニアもいたという証言もあった。
衝撃的な事実だ。


番組では、「届かなかった手紙」を届くはずだった人を探し出し、実際に配達した。

その方々ももう80代後半の高齢者ばかりである。
中には、「遺骨も何も届かなかった。やっと兄に触れ合えた気がします」と言って、ハガキを愛おしそうに撫でている方もおられた。

若く尊い命がたくさん失われた。
戦争とはそういうものだ。

先日朝からJアラートによる「国民保護に関する情報」という映像がテレビ各局の画面を占領した。
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戦時中に空襲警報が出た時はこんな思いになったんだろうか、と思った。

戦争は決して起こしてはならない。

悲劇を生んではいけない。必要のない命は一つとしてないのだ。

番組中であるお寺の住職が紹介されていた。
その方も「軍事郵便」 の収集家で約17万通もの郵便物を保管されている。
その住職によると、戦死された方の郵便物をここに集めて供養を行なっているそうだ。


自筆で書かれた唯一残された遺品でもある。
魂が宿っていてもおかしくはない。
軽々に扱うものではないだろうと思う。


まだわずか70数年前のことというのが何か信じ難い。

その当時日本も戦争当事国であったのだ。

戦争で犠牲になった方のことを思うといたたまれない。

繰り返すがこのようなことが2度とあってはならない。と強く思う。

 

お墓参りにやってきた。
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僕の祖父が作った墓が四日市にある。

祖父は四日市の出身でその後学生時代に名古屋に移った。

僕の記憶では、四日市の富田中学(旧制)から在学中に自身の決断で名古屋市北区の愛知県立工業学校(現在の愛知県立愛知工業高校)(以下愛工)に編入試験を受けて転校したと聞いた。
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この愛工は歴史が古く1901年(明治36年)に開校している。
祖父は確か一けた台の卒業生だったと思う。

愛工を卒業後、北区にあった名古屋工業技術試験所という公的機関で定年まで働いた。
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機械科専攻だったと聞いているのでいろんな機械試験や研究をしていたのだと思う。

この名古屋工業技術試験所は2001年に省庁再編成に伴い経済産業省所管の国立研究所(産業技術総合研究所)となり守山区に移転している。

独立行政法人産業技術総合研究所中部センターという名称で発足している。
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そののち、2015年に国立研究開発法人産業技術総合研究所中部センターという長ったらしい名称に変わり現在に至っているとのこと。

名前が長すぎてなかなか入ってこないが、略して産総研中部センターと呼ばれているようだ。

ここのHPによると”日本の産業を支える多様な分野の研究を行うわが国最大級の公的研究機関です。”となっている。
日本で最大の研究機関が名古屋にあるとは、少し意外な気もするが事実なのだ。

そのように振り返ると祖父はすごいところで仕事していた人なのかと改めて感心する。

僕が中学生時代祖父から、「愛工に行け」と勧められて、言われるまま愛工を受験した。
何もわからなかったのでこれまた勧められるまま建築科に入学した。

その当時、公務員試験を受けるように勧められたが、どうも公務員のイメージが僕には合わずそれは断念した。
もしその道に行っていたら、また違う人生になっていたのだと思うと、家族の言葉の力は大きいと思う。

昭和50年2月、73歳で他界した祖父、おじいちゃん子だった僕はその時悲しかった。

一度だけ救急車に乗ったことがある。
ある日の夜、祖父の様態が急変し祖母が救急車を呼んだ。
そして祖母と僕が付き添って病院まで行った。
時間にすれば10分か15分くらいのことだが、どうしていいのかわからない不安などが入り交り、頭の中はちょっとしたパニック状態だ。

祖父の思い出がよみがえる、お墓参りだ。


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