説明の必要はないと思うが「永ちゃん」と言えばもちろん「矢沢永吉」のことである。

1973年リーゼントに革ジャンスタイルで、ストレートなロックンロールを演奏するバンドが登場した。〜「キャロル」である。

「キャロル」の中心にいたのは、ヴォーカルとベースを担当していた「矢沢永吉」だ。
アマチュア時代はビートルズのコピーをやっていたらしいが、「不良少年」のイメージで売り出した。それも初期のビートルズに習ってのことなのかもしれない。

デビューシングルから連続してヒットを飛ばし、一躍スターとなる。
ここからロックンローラー「矢沢永吉」がメジャーになったわけである。
今までにないファッションや音楽性で瞬く間に虜になり、よくレコードを聴いた。

その当時、高校生だった僕らは、「よし、バンドをやろう」ということになり、友人らと楽器を買い、よく集まって練習をした。コピー曲はキャロルの「ルイジアンナ」や「ファンキー・モンキー・ベイビー」そしてビートルズ「オブラディオブラダ」だった。

音楽的な才能のある者がいなかったため、披露できるほどまともに1曲もできていなかった。
ま、男の子の遊びの一つだ。バンドに憧れる時期ってみんなあるんじゃないかな。
自分たちの音楽的才能をわかっていたから、誰も「プロをめざそう」なんて事も言わなかったし、(当たり前だ)集まって"ジャカジャカ"やるのが楽しくて、結構充実した時間だった。


そんなことをしているうちに、「キャロル」はわずか2年半という短い期間で解散を発表する。僕らにも衝撃が走った。
人気絶頂期の彼らに「解散」という言葉はどこにも見当たらなかったからだ。
解散コンサートが行われるという情報を聞き、これは絶対見に行かなくてはとチケットを買った。名古屋は名古屋市公会堂で行われたのだが、始まる前に鶴舞公園あたりに行くとナナハンに乗った若者たちが集まり、異様な光景があった。


前座は宇崎竜童率いる「ダウンタウンブギウギバンド」だった。
正直なところ、みんなキャロルを見に来ているので前座など必要なかったように思う。
まだ人気が出る前の頃で、あまり盛り上がらずに少し気の毒な気がした。

さあ、いよいよ「キャロル」の登場だ。
メンバーがステージに現れると、ポマードの匂いがプーンと鼻をついてきた。
「これが本物のキャロルか。永ちゃんか、カッコいいな」
公会堂という会場は大して広くないので、かなり近い距離に「永ちゃん」がいるという事実は、それだけでも興奮するには十分だった。


当時キャロルはやんちゃな若者たちから圧倒的に支持されていた。
その日もそんな若者でごった返しており、一触即発の緊張感があった。

演奏が始まりしばらくしてからのことだ、一人の若者が狂ったように踊りだしたのだ。
その若者は長髪でベルボトムのジーンズという風体でこの場では異彩を放っていた。しかも、片手には一升瓶を持ちながらという状況で、誰の目から見ても「迷惑な奴」だった。
すると案の定小競り合いが始まり、気がつけばボコボコにされていた。

するとステージからそれに気がついた永ちゃんが「喧嘩はやめようぜ」のようなことを言って終息した。
一升瓶男は口の周りを赤く染めて会場を後にした。

永ちゃんのライヴはこの1回きりしか行けてないが、このシーンは今も覚えている。


最後の東京日比谷野外音楽堂でのラストコンサートはのちに「キャロル」を伝説にした。
そのライヴ音源がレコードとして売り出され迷わず購入した。
解散してもなお、僕らを痺れさせてくれたのだ。


キャロルが解散して、これから永ちゃんたちはどうなっていくんだろう。
後に「矢沢永吉」があそこまでビッグなロックスターになるとは知る由もない頃だ。

そして「矢沢永吉」はソロ活動に入る。
解散の約1年前の1974年に「夏の終わり」という曲が発表された、曲調がこれまでと変わった。
僕は少し違和感を感じたが、後にして思えばソロになってからの「矢沢永吉」を予感させる曲だったと言える。


(ソロ編に続く)