舘祐司の気ままなブログ

さて今回は、メラニーの「心の扉を開けよう」を紹介します。
img_0

1971年にリリースされ全米1位に輝いた彼女の最大のヒット曲です。

メラニーはアメリカのシンガーソングライターです。1947年生まれですから、現在72歳です。父親がウクライナ系、母親がイタリア系ということです。どことなく東洋系の雰囲気もありますね。
250x250_P2_G5878432W

1969年に開催された伝説のフェス、ウッドストック・フェスティバルに出演したことでも有名です。
index

原題は「Brand New Key」=直訳すると「新品の鍵」です。
歌詞の内容は、新しいローラースケート靴を手に入れた女の子が、スケート靴の靴底につける金具を止める鍵を男の子に対して2人で一緒に頑張りましょうと気を惹いているんだそうです。何ともほほえましいですね。心の扉を開ける鍵という和訳なんでしょう。

いろんな曲を作り、出されていることと思いますが、正直なところ僕はこの曲しか思い浮かびません。
そのくらいメラニーというシンガーはこの曲の印象が強いと思います。
しかし、そのことが皮肉にも彼女を苦しめることになったようです。
彼女自身が語っているところによれば、「私は一つのカテゴリーにはめ込まれてしまい、それに耐えなくてはならなくなった。(中略)しかし、物をクリエイトする人間には、一つの枠を超えたそれ以上のものが必要だった」。

イメージというものは、見ているものが勝手に作り上げるものです。それは本人が違うと言っても簡単に覆せるものではないのでしょう。
日本でもアイドル出身の歌手が、年齢を重ねるうちにどこかで脱皮を図らなくてはいけなくなります。
そんなときはいろいろと悩み苦しむことになるのでしょう。

大ヒットの影にはそんなエピソードがあったんですね。

僕の主観ですが、メラニーとキャロル・キングが何となく似たような雰囲気を感じます。
ご本人から言わせれば、「そんなことはない」とお叱りを受けるかもしれませんが。

では、1971年のメラニーで「心の扉を開けよう」をお聴きください。
 

ショーケンこと萩原健一さんが3月26日に亡くなられていたことが、報道されました。実にショッキングなニュースです。
72545_201001180418180001263812317c

昨年の8月にグループサウンズ時代の「エメラルドの伝説」をこのブログで紹介しました。

テンプターズ解散後、沢田研二さんや井上堯之さんらとPYG(ピッグ)というロックバンドに参加されました。
20190328s00041000423000p_thum

ソロとしてリリースした「大阪で生まれた女」もオリジナルのBOROを圧倒するくらいのパワーを感じました。

そして、その後人気ドラマ「太陽にほえろ!」のマカロニ刑事役で出演すると大当たり。特に最後の殉職シーンは衝撃的で、「殺さないで」という声が多く上がり、大きな話題を呼びました。この時の常識破りの体当たり演技が評価され、こののちの活躍につながったように思います。
35001051_1521418447962480_8348184601033703424_n

その後も、「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」と俳優としても人気を不動のものにしました。
この2つのドラマは、普段ドラマをあまり見てなかった僕でも見ていました。特に「傷だらけの天使」での役は、ちょっとアウトローで荒っぽいんですが、権力の前には弱い男を演じ、共演の水谷豊さんとも息がぴったり合っていました。このドラマは好きでしたね。
D2v5Bq4UYAMmWhq

ショーケンはジュリーと並んで僕ら世代の大スターであり、ヒーローです。子供のころからのいろんな思い出が頭に浮かびます。
ent1903280005-p7

たびたび事件を起こし、世間を騒がせたりもしてきました。しかし、アーティストとしては類まれなる才能の持ち主だったと思います。

昨年の5月には西城秀樹さんが召されています。(そのブログ

少し前に内田裕也さんが旅立たれたばかりです。日本のロックの黎明期を支えた人たちの死は残念に思います。
20190328s00041000416000p_thum

享年68歳と年齢を聞いて驚きました。まだお若いのにということと、自分と7歳しか離れていないことにです。
また、NHKの大河ドラマ「いだてん」に出演されていることがわかりました。政治家の高橋是清役として第25回から登場する予定で、もう収録は済んでいるそうです。どうやらこの作品が遺作となりそうです。
300x300s_FFFFFFFF
いくら「いだてん」とはいえ、そんなに急がなくてもいいのに、って思います。

約8年間の闘病生活を余儀なくされていたようです。
本人の要望で病気のことは公表せずに最後まで貫きました。
さぞ、辛かっただろうと思います。
どうぞ安らかにお眠りください。



イチロー選手は3月21日の試合後に引退発表し、引退の記者会見を行いました。
img_ca6b7048b044f2dbe0b3b8c439b7add7150895

サイト「NunberWeb」の3月26日の記事に、元イチローの番記者だった方のエピソードが書かれていてとても興味深いので紹介します。
タイトルは「イチロー引退会見で読み取れた、番記者たちの”地獄”と信頼関係」とありました。
https://number.bunshun.jp/articles/-/838754

「イチローの取材『地獄』でした」
イチロー引退表明した翌日、デイリースポーツ5面の見出しです。

記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したと言います。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返っています。
spo1903220011-p1

《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日)

それから3年後に初めて単独インタビューに挑み、イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知ります。
後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったと言います。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」と。

また、オリックス時代のイチローを担当した記者は「記者泣かせの選手だった」「想定通りに進んだことはなかった」「時に叱られ、呆れられ・・・・・。褒められたことなどなかった」と振り返っています。

イチローからすれば、自分を取材する記者も当然プロフェッショナルであるべきと考えていたのです。イチローの番記者になったら高レベルを求められる、うかつな質問はできないのです。

スポニチの記者の回想録には、オリックス時代のイチローに打撃フォームに違和感を感じ、「打ち方変えたの?」と聞くと「どこが変わったのか考えてください」といちろーから宿題を課されたそうです。

よーく考え抜いて数日後答えると「本当は去年もこの打ち方をしていた時があったんですよ」と返って来たそうです。

このやり取りから右足を振り子のように使う打撃フォームを記事にしたら「振り子打法」の名付け親と言われるようになったそうです。

当時20歳のイチローから課された宿題を必死に記者が答えた結果だと書いています。
thumb-12265-225815-entame_l

イチローはとても頭の回転が速く、一般的に考えるスピードとは時差が生ずるのかなと思います。だから時折インタビューや会見がかみ合わなくなる時があるのかもしれません。

そういえば、イチローの高校時代は成績のいい生徒が集められるクラスに属していたと聞いたことがあります。そもそも賢い人なんでしょう。それに加えてイチロー独特のやや哲学的な考え方などが織り交ざるので、常人はなかなか理解に苦しむのかもしれません。

そして、あの引退会見の中で筆者が感じたいくつかの「?」について述べられています。
img_13498667d5a6b31326787cf3d1c83e7a86028

現役引退により、「伝説」となったイチロー。いずれ彼の生き様が本になったり、映画化されたりするときがくるでしょう。

プロ野球選手としては一区切りとなりましたが、この後の身の振り方も注目されます。プロ野球の監督はないと断言していました。一方で子供や学生の指導には興味があるようです。

第二の人生でも、我々をワクワクさせてくれることを期待したいと思います。
b2b27cf4b3d070f5260aa584df9f340d_640px



このページのトップヘ